はたらく仲間高知編

宮田真の写真 仁淀川河川敷にて

選択肢があること、
選択できること。
それが大事なんやと思います。

宮田 真2021年入社

戸籍上の性を女性から男性に変え、男性として社会生活を送ってきた宮田さん。2017年、突然の病気で足がだんだんと動かなくなり、四度の手術を経て車椅子生活が始まりました。性的マイノリティと身体障害。二つを併せもつ宮田さんの人生はその後、アーチェリーとの出会いからパラスポーツ選手として、また高知県にパートナーシップ制度を導入するレインボー高知代表として、思いがけない広がりを見せていきます。現在はそのすべての活動と並行して阪和ビジネスパートナーズの社員でもある宮田さんに、「働く」を含み持つ、大きな「生きる」をうかがいました。

性別を確認されるのが嫌で、
病院に行くのを躊躇してました。

宮田真とお母様の写真 アーチェリー場にて

宮田さんは、アーチェリーとは車椅子になってから出会ったんですよね。

はい、退院してから半年後くらいなんで、2019年ですかね。きっかけは主治医に「スポーツをやったほうがいい」と言われたことで。でも僕は首の靭帯を切っていて転倒が厳禁なんで、バスケとかラクビーとかハードなものはダメなんです。だからはじめは卓球しようかって話になって、でも卓球は手が長いほうが有利で、僕が絶対に届かないところばかり狙われたら無理なんで(笑)、ちょっと嫌やなと思って。他に気になるものはない?って言われて考えたら、あ、もともと僕、弓をやるのが好きやったなと。

弓?

おじいちゃんが梨をつくってるんですけど、子どもの頃に梨畑で、おじいちゃんがつくってくれた木の弓で遊んでた記憶があったんです。だから、アーチェリーだったら楽しいかもしれんし、相手がいないんで、気兼ねなく自分との戦いができるかなと思って。やってみると、本当に集中力で全部変わってくるんです。今日しんどいなと思ったら点数が全然伸びないし、ちゃんと集中したら伸びるし、本当に精神的な面での自分との戦い。そういう意味で楽しい。

じゃあ、その楽しさにハマって、
めきめきと上達を。

そうです。阪和ビジネスパートナーズの仕事を始める前まではアーチェリーばっかりだったんで、早いうちから結構いい点数が出せていたかな。師匠や先輩からはちょっとブーイングが(笑)。1年目で、高知の障害者スポーツ大会に出たんですよね。そこで1位になったのが最初の入賞です。今は国体にも出ています。

へぇ〜、才能あるんですね。
ちょっとお話が前後しますが、そもそもどういう経緯で車椅子になったのか、お聞きしていいですか。

2017年の冬あたりですね。体に異変が起き始めて、背中痛いなとか。でも、言うたら職業病みたいなもんやろって感じで放置してたんです。僕20歳の頃からパン屋で働いてて、パンづくりって肉体労働やから。でもだんだん足の動きがおかしくなり、結構つまずいたりとかしてたんやけど、病院には行きたくなくて。というのも、性別違和のことがあったんで。すぐに病院行きなさいって言われてもちょっと。

センシティブなことを聞かれてしまうから、
ですね。

はい。今までも、人前で大きな声で戸籍変更のこと確認されたりとかあったんで。それで放置してるうちにだんだん階段も上りづらくなって、結局ちょこちょこ病院にも行きはしたんですけど、原因がわからず、最終的には杖をついてないと身体支えられんようになってきたんです。

それで一旦実家に帰ったら、親がびっくりして、すぐにあちこちの病院に連れて行ってくれて。やっと原因が見つかったときにはもう緊急入院してくださいって形になって。そっから四回手術をして、車椅子になりました。

宮田真の写真 アーチェリーで的を目掛ける様子

お見舞いに来たはずの友人が、
僕の目の前で喧嘩を始めたんですよ。

宮田真の写真 ご自宅の居間にて

車椅子になったことは、やはりショックも大きかったですよね。

それがしょげてる暇もなかったんです。すぐにレインボー高知の活動がはじまったから。

レインボーの活動はその頃からだったんですね。
でも、どういうことですか?

きっかけは、入院中、僕の10年来の友人である女性同士のカップルがお見舞いに来てくれたことで。当時そのカップルの片方が、職場で「30超えたら結婚せんのか」と頻繁に言われていたんです。本人は職場では彼氏がいるテイで通していたので、「これは苗字を変えないといけないのかも」みたいな感じになってきて。一方で彼女の相方は、「苗字は変えなくても、二人が家族だという証がほしい」と、まぁ二人とも葛藤していたんですよ。で、なぜかその言い合いを僕の病室でされたというか、口喧嘩が始まりまして(笑)

お見舞いに来たんじゃないのか?と(笑)

そう、僕今すごい大変な状態なんですけど・・・(笑)って、思ってましたね。でも聞きながら、じゃあとりあえず、退院した後にもう一回話そうと。そうこうしてたら、パートナーシップ制度が2015年に渋谷でスタートしていたんで、高知市にそれを導入したら家族の証が書類として残ることに気づいて。それで二人の精神安定が図れるんやったらそうしようと。二人に話したら当然「やるやる!」ってことになって。そのまま署名活動ですね。

なるほど、だから「しょげてる暇もなかった」わけですね。

はい。僕は車椅子になったら、イコール友達が離れていくと思ってたんですよ。やっぱ今までできたことができなくなるので。でもその二人はもう全然関係なくて、車椅子であっても僕を頼ってくるんだみたいな。そっからはもういろんな仲間が増えて、署名活動だけじゃいかんがやねってことで、講演が始まったりメディアを使うことになったり。そんとき誰が顔出すんやって話になったら、みんな一斉に僕の顔見て、まあそうかと思って。今までずっと周囲には性別のこと隠してたんですけど、もういっかって話になって。じゃあ僕が出るわと。

では、それまでは周囲にも言ってなくて、活動をきっかけにオープンに。

そう、だから前職の子らにも「知らんかった」とか「気づかんかった」とか言われました。逆に嬉しかったですね。気づかんくらい男に見えたんやって。

結局メディアも結構注目してくれて、高知市の広報番組も出させてもらって、新聞にも毎月、何かしら取り上げてもらって。2021年にようやく高知市にパートナーシップ制度ができて、今は他の自治体にも少しずつ広げているところです。パートナーシップ制度に関する職員研修なんかも行っています。

宮田真とお母様の写真 ネコ抱き抱え微笑む宮田

車椅子になってからの人生の方が、
自分らしいかもしれない。

宮田真の写真 アーチェリー場の駐車場にて車椅子から降りる様子

なるほど、それぞれの活動に対して、ここまでのバイタリティを持ちながら生き抜いていく宮田さんは、どんな使命感でそれをやっているんですか?

使命感。何でしょうね。流れるままやってきたんでよくわからないですけど。でも車椅子になったからこそできたのかなっていうのはすごく思いますね。車椅子じゃなかったら、多分パートナーシップ制度の話もそこまでガンガンやろうっていう気持ちにならなかったのかなって思うんですよね。車椅子になったから新たな自分がまたできて、いろんな出会いもあったっていうのもあるんですけど。

宮田真の写真 車椅子の足元
宮田真の写真 作業部屋にて

新たな自分。それはどんなふうに過去の自分と違うんでしょうか。

僕もともとすごい人見知り激しかったんですよ。前に出たくなかった。でも自分にとって自信を持って言えることに関しては前に出れるんだなって気づいたんです。性的マイノリティに関しては自分も当事者やし、自分も辛かった思いをしてるし、病院だって行けなかった人間やったんで。世の中にはまだそうやって一歩を踏み出せずに悪化していく人もいると思うんですよね。そういうことも、社会に訴えられる。

阪和ビジネスパートナーズでも僕はカミングアウトしてるんですけど、した方が自分らしくいけるんやなっていうのをすごい感じて。パン屋の時は、バレんかどうかヒヤヒヤした部分も若干あったんですけど、ここではもうオープンになってるんで、同期も男としか見てくれてなくてやりやすいし。そういうことを考えると、自分らしく生きていけてるんかな、今。車椅子やとあそこも行けん、ここも行けんっていうのはすごいあるから、ちょっと悲しい部分もあるんですけど、それよりなんか本当に車椅子がきっかけで、逆に自分らしく過ごせてるなって思いますね。

阪和ビジネスパートナーズの話が出ました。入社して、楽しいですか?

楽しいです。やっぱり雰囲気ですかね。同期とかもみんな5人一緒やし、誰も辞めてないし、遊んだりもするし、リモートだからこそできることっていうのがすごいあるし、何より仕事環境が自分の家なんで、トイレにも困らんし服の着替えにも困らんし。今日しんどいなと思っても隣が職場やしって思うと、全然「今日仕事嫌やな」って思うことがなかった。

大事ですよね。こうやって楽しく働けている宮田さんが、今、世の中に伝えたいことはどんなことですか。

僕が働きたいと思ったとき、車椅子ユーザーの僕には高知県で会社を選択できるほどの企業数はなかったんですよ。当時は50社中、車椅子ユーザーOKの会社はたったの3社。でも、テレワークであれば企業を選択する余地があったんです。だから自分に合った会社、ここで働きたいと思える会社を選択できた。その「選べたこと」にすごい価値があるんやと思います。

阪和ビジネスパートナーズでいろんな障害のある方と働いたことで、僕の知らなかったことや、同じ車椅子ユーザーでも違いが沢山あることを知れました。僕はトランスジェンダー男性として、これまでも「知ってほしい」「選択したい」という悩みを持って生きてきたんですけど、車椅子になっても同じでした。やっぱりみんな自分のことを知ってほしいし、自分で選択して進みたい。

だから、どんな環境でも立場でも、知ってもらおうとすること、相手を知ろうとすること、選択肢があること、選択できること。そういうことが本当に大切だと改めて感じていますし、自分を通して世の中に伝えていけたらなと思いますね。

アーチェリー場の写真